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ー捜す必要はないー
たまに礼拝堂にクリスチャンでない方が入ってくるとき、うやうやしく一礼される方がおられます。
神社仏閣へ入る時の神聖な思いをもち礼節を重んじてくれているのだと思います。
しかし私たちの信じる唯一の神様は教会に住んでいるわけではないし、礼拝堂のどこかに鎮座しているわけでもありません。
聖書にも、使徒の働き7:48に「いと高き方は手で作った家にはお住みになりません」とあります。また2コリント6:16には「…私たちは生ける神の宮なのです。
神はこう言われました。私は彼らの間に住み、また歩む。私は彼らの神となり彼らは私の民となる。」
つまり神様は信じる者の心に住んでくださり、いつでも信じる者たちの間におられるお方です。
きょうの聖書のことばは、イエス様が5つのパンと2匹の魚を5千人以上の人々に食料として配り、満腹にさせる奇跡を行われた後、大勢の人々がいつまでもぞろぞろついてくると騒ぎが大きくなるのを心配して湖にあった船で対岸に渡ろうとしたとき、そして対岸へ人々がイエス様を追ってきたときの出来事です。
イエス様は弟子たちを船に乗せ、ご自分は乗りませんでした。
弟子たちが出港してしばらくすると、船は強風にあおられて転覆しそうになりますが、この時イエス様は再び奇跡を起こし水の上を歩いて弟子たちを励ましに行きます。
この時のことをマタイ14:22-34、マルコ6:48-51ではさらに詳しく記していますが、ヨハネはさらっとしか触れていません。
弟子たちが強風の湖上の船で恐れをなしたとき、イエス様は水の上を歩いて励ましに来てくださいました。大勢の群衆は対岸に渡り終えてイエス様を発見すると、弟子たちと船に乗らなかったはずのイエス様がどうやって対岸に来たのか不思議に思い、しきりに訊ねました。
現代でもイエス様は同時刻に日本にもアメリカにもアフリカにもおられます。
どうやって移動したのかなど気にすることではないし、どこにいるかと捜す必要ももちろんありません。
イエス様はいつでもどこでも誰とでも、信じる者と共に、すぐ近くにいてくださいます。
姿を捜す必要などないのです。