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【ヨハネの福音書6章41-47節】
ー純粋な心ー
古代ユダヤ社会も現代と同じで学歴社会でした。
もしエルサレムの神学大学を卒業して立派なラビの下で修業をしたという学者が「私は天から遣わされた」と言ったのであれば、容易にそれを信じることが出来たでしょうが、大工のヨセフの息子が同じことを言っても信じることができませんでした。
人はどうしても人間的価値観や外面的基準でものごとを判断しがちです。
生い立ちや家族やその生活ぶりのすべてを知っていると、判断はその情報に大きく左右されます。
貧しい大工の子が、神の使者でありうるか。
答えは否定的にならざるを得ません。
ユダヤ人たちはイエス様について、自分たちのその否定的意見をぶつけ合いましたが、それは神の考えておられることを知るということには至りませんでした。
でもそこから学ぼう、教えてもらおう、とはしませんでした。
聞いたならそこから学ぼう、教わろうとする。
それが神を知るための方法です。
信仰に学歴や家柄は関係ありません。
神様を否定的にとらえず、自分に都合よくとらえず、素直に学ぼう、教わろうとする思いをもって向き合いましょう。
イエス様を知るには人間的基準に照らし合わせず、純粋に学び教わろうとすることです。
それができれば、神の恵みと祝福をいただいて歩むことができます。