【創世記 1章26ー31節 】
ー 人間ってどんなかたち? ー
今日の聖書の言葉は、神の天地創造6日目に人間を創造した時のことばです。
まず神は26節で
「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」
とおっしゃいました。
神はお一人のはずなのになぜ「われわれに」と複数なのでしょう?
これは私たちの信じるキリスト教の神様が、3つの側面と3つの人格を持つ三位一体の神様であるということが分かれば、理解できると思います。
そして神は
「われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう」
とおっしゃいました。
実際
「…人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」(27節)
とあるように、ご自分の思い通りに人間を造られたとあります。
ここで、私たちは大きな勘違いをしがちです。
「かたち」という言葉にとらわれて、「この肉体が神と似ていて、神は私たち人間のようなかたちをした存在だ」と思いがちなのです。
しかし聖書ははっきりと「神は霊である」と言っています。
霊は形ある存在ではありません。
霊はヘブライ語でルーアッハといい「息」「風」と訳されます。
「風」は目で見ることはできませんが、木々を揺らし海川湖の水面に波を立てて、人間にその確かな存在を知らせてくれます。
ですから神が人間のかたちをしているという考えは間違いであるということになります。
では人間が神の〝かたち〟に似せて造られたとは、どういうことなのでしょうか。
それは霊、つまり人格の面においてです。
人格面において似せて造られた、というより神にしか存在しなかった人格を与えられて人間は造られた、ということです。
動物は本能で他と交わりますが、人格を持つものは人格同士が交わりを持つことができます。
つまり人間だけが被造物の中で神と交わることができる、ということです。
人間は神との人格的交流を通して成長し、他の人間と円滑に人格的交流ができるようになるのです。
人格はそもそも神のものです。
被造物の中で唯一人格を与えられた人間は、画期的存在です。
しかしながら神との交流を持たなければ、人格的な成長は望めません。
現代人に欠けているもの…それは神との人格的交流です。
神と交わって人格を豊かに成長させ、すべての被造物の頂点に立つものにふさわしい生き方をしたいものです。