- マタイの福音書 26章44-51節
44)イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。45) それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人(つみびと)たちの手に渡されます。46) 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」47) イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣(つるぎ)や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。48) イエスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。49) それで彼はすぐイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。50) イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。51) すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を引き抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
(聖書 新改訳2017/©︎2017 新日本聖書刊行会)
「覚悟」とは、危険なこと、不利なこと、困難なことを予測し、それを受け止める心構えをすることです。
人生というものは、岐路に立ち、何をすべきか決断を迫られることがあります。
その時、私たちは覚悟を決めなければなりません。
覚悟とは捨て去ることでもあります。
新しい生活を手に入れるために、それまでの生活を捨て去る覚悟、また、進むべきいくつかの選択肢のなかで、選ぶべき一つを除き、あとは捨て去る覚悟です。
人間は覚悟を決めると強くなれます。
迷いがなくなるからです。
選択肢が決まらずにいる時は、どうしようか迷いがあり、自分の生き方がなかなか決まらず、弱さをさらけ出しているようなものです。
しかし進むべき道が決まれば、道は一つですから迷わず堂々と力強く歩むことができます。
イエス様も人間イエスとして地上におられた時は、覚悟を決めるために悩み苦しみました。
ゲツセマネの園(その)で3度に渡る祈りをなさり、「十字架刑の道」が人類救済の唯一の道であることを自分自身の中に収めて、覚悟を決めました。
覚悟が決まると、冷静にいつも通り平常心で、すべてを受け止められました。
ゲツセマネの園の祈りを終えると人々がやって来て、ご自分を捕らえることも、裏切り者のユダが捕らえに来る人々にご自分を認識できるようにキスで合図することも、イエス様はすべて分かっていました。
覚悟がなければ、その場から逃げることもできたし、ユダのキスを払いのけることもできたでしょう。
しかしイエス様は、これから起こるすべてのことを受け止める覚悟があったのです。
覚悟を決めるとは、一つのことをやり通すことでもあります。
私たちもイエス様のように覚悟を決め、自分の人生を投げ出さずやり通しましょう。
覚悟を決める人を神様は豊かに祝福してくださいます。
*人名・地名等の表記は最新版の新改訳聖書2017に則っています
〜【覚悟】マタイの福音書 26章44節−51節〜