マタイの福音書 5章38-48節
38)『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。39) しかし、私はあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。 40) あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。41) あなたに1ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に2ミリオン行きなさい。42) 求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。43) 「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。44) しかし、私はあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45) 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。46) 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人(しゅぜいにん)でも同じことをしているではありませんか。47) また、自分の兄弟にだけあいさつをしたとしても、どれだけまさったことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。48) ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。
(聖書 新改訳2017/©︎2017 新日本聖書刊行会)
江戸時代の日本には「仇討ちご赦免状」という制度があり、正当な理由があれば復讐による殺人が認められていました。
モーセの律法も、「目には目、歯には歯」と復讐を認めているようにも見えます。
ところがイエス様は、39節にあるように
「あなたの右の頬を打つような者には左の頬も向けなさい」
と、復讐を認めない教えを説いています。
そればかりか、このあとに続く42節までの教えは、これが本当に人間に実行できるのだろうかと思える教えになっています。
律法の教えと、律法を成就するためにおいでになったイエス様の教えに矛盾がないか、検証してみたいと思います。
「目には目、歯には歯」という教えは決して個人の復讐を認めているわけではありません。
その証拠に、モーセの教えには「復讐してはならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:18)とあります。
「目には目、歯には歯」という教えは、どのような目的のためにあったのでしょうか?
それは人間のとどまるところのない憎しみや恨み、そしてそういう醜い思いのために起こる害悪を抑制するためでした。
人間の復讐心や恨み憎しみがどれほど恐ろしいか。
それは歴史が証明しています。
一回殴られれば二回殴り返す。
一人殺されれば二人殺す…。
とどまるところを知らないのです。
抑止する目的のために「目には目、歯には歯」「一人には一人」「二人には二人」という同等の対応によって、社会に与える害と混乱を避けようとしたわけです。
決して復讐を容認したわけではありません。
与えられた損害に正当な賠償を求めた教えでした。
大切にしなくてはならないのは、やはり誰に対しても、たとえ自分を迫害する人であっても、愛をもって接することです。
ここに並べられた教え…とてもそこまでは…と思います。
でも人類は長い歴史のなかで不可能と思えることをたゆまぬ努力と研究で可能にし、実現してきました。
不可能と思える愛も、私たちが目指し続けていけばきっと手に入れることができます。
見本はあるのです。
神の完全な愛を目指して、私たちも努力し続けましょう。
*人名・地名等の表記は最新版の新改訳聖書2017にできる限り則っています
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