〜Advent 第2週〜
ーいろんな人がいるー
今日の聖書の言葉は、過越しの祭りが間近であったということから始まっています。
ユダヤ人にとってこの祭りは大変意義があり、ユダヤ人の歴史的一大事業でエジプト脱出を記念するものです。
だいたい春の3月から4月にかけて行われ、多くの人々がエルサレムに上り、神殿に詣でて身を清めます。
この時の人々の注目の話題は「あの方」…イエス様が来るに違いない、見てみたい、会ってあの方のなさる奇跡の力を体験してみたい、と皆が思っていました。
一方祭司長やパリサイ人といった指導者階級は、この機会にイエス様を捕らえようと考え「イエスがどこにいるか知る者は届けなければならない」という命令を出していました。
対象となる方は同じですが、一方では素晴らしいお方、でももう一方では極悪犯罪者のように扱うという、まったく真逆な捉え方です。
しかし私たちも同じでAという人物が、ある人にとっては善い人でも、ある人々にとっては人を騙す悪人、というようなことはあると思います。
同じ人でも見る人にとって違う人になってしまうことはあるのです。
そんな中イエス様は祭りの6日前にベタニヤに来られたとあります。
そこには少し前にイエス様によって生き返ったラザロがいました。
人々は死人だったはずのラザロが生きていることに好奇の目を向けていたと思います。
奇跡をおこなったイエス様よりも死んだはずの男が生きて動いていることに興味をそそられたのでしょう。
そこへマルタの妹マリヤがやって来てイエス様の足に香油を塗りました。
「ナルドの香油300グラム」とあります。
イスカリオテのユダが「300デナリで売れたのに!」と言っていますが、現代の価値にしておよそ300万円です。
300万円もの香油を持っていたマリヤにびっくりですが、彼女の家はイエス様をサポートする大金持ちであったことがわかります。
イエス様をイリュージョンをおこなうマジシャンのように見る人がいたり、愛と尊敬の対象として向き合うマリヤのような人もいました。
イエス様を見る目にもいろいろな目があったのです。
さらにただ金銭的な価値でしかものごとを見ないイスカリオテのユダのような人間もいました。
そしてイエス様ご自身も、間もなく十字架にかからねばならないことを思い、マリヤのおこないを自分自身の葬りのためのおこないだと言っています。
同じ場面を見ても人によって感じ方や捉え方は違います。
いちいちそれを取り上げて意見する必要はありません。
そのままにしておきましょう。
大金を湯水のように使ってはもったいない。
でもそれは持っている人の勝手です。
貧しい人々がいなくなることはありません。
その人々のため自分のできることをしましょう。
自分の役立てることで仕えましょう。