ルカの福音書 15章1-7節
1) さて、取税人や罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。2) すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。3) そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。4) 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで探し歩かないでしょうか。 5) 見つけたら、喜んで羊を肩に担(かつ)ぎ、6) 家に戻って、友達や近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。7) あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
(聖書 新改訳2017/©︎2017 新日本聖書刊行会)
イエス様は
「・・・私は心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい・・・」
(マタイ11:29)とおっしゃいました。
私たちはもともと罪人であり、プライドにこだわる自己中心な生きものです。
柔和そして謙遜さを身につけたいと思っても、なかなか簡単に身につくものではありません。
イエス様を信じたからといって、その人の人格が一瞬にして変わって、身勝手に威張り散らしている人が突然柔和で謙遜に変わることはありません。
信仰はマジックではないのです。
私たちが柔和で謙遜な人になるには、どうしたらよいのでしょう?
まず私たち自身が良い人生を送り幸せを感じることです。
幸せを感じる人生、それは私たちが愛し愛されることです。
愛することって、意外に分かり易いものです。
たとえば、妻を、夫を、子どもを、家族を「愛する」とは、その人々のために精一杯自分のできることをすることであるといえます。
ひとことで言えば、それが「愛する」ということです。
一方、「愛される」ことは確かにその受身側のことなのですが、問題は
「そうされて果たして私たちが愛されていると感じるかどうか」
ということです。
幸せな人生とは、私たちが「愛されている」と感じることにほかなりません。
家族から、仲間から、愛されているでしょうか?
愛を感じることができるなら、あなたは必ず柔和と謙遜を身につけることができるでしょう。
イエス様は罪人を受け入れ、彼らに教えを説き、ともに食事をしました。
それはイエス様が彼らを愛していたからでした。
ただ一人でも神の作られた愛する者がいなくなれば、神にとって悲しむべきことです。
神様は一生懸命探し歩き、見つけ出してくださいます。
なぜなら神の目に私たちは「高価で尊い」(イザヤ43:4)からです。
神は私たちを愛して下さっています。
一人ひとりが個性ある大切な存在です。
愛される私たちは、柔和で謙遜な人に必ず、変わることができるのです。
〜【きっと変われる】 ルカの福音書 15章1ー7節 〜