ヨハネの手紙第一 3章9-19節
9) 神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種(たね)がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。10) このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義(ぎ)を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。 11) 互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信(ししん)です。12) カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。13) 兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。14) 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。15) 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。あなたの御前(みまえ)を離れて。16) キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 17) この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。18) 子どもたち。私たちは言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。19) そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。
(聖書 新改訳2017/©︎2017 新日本聖書刊行会)
愛するということは人間にとって永遠のテーマであるといえます。
できそうでできないのが、愛。
わかっているようでわかっていないのが、愛です。
Aという人を愛することができても、Bという人は愛せない。
私は愛しているつもりなのに、相手は愛されていると思ってくれていない。
どうしてそういう行き違いや、差別をするようなことが起こってしまうのでしょうか?
それは、そもそも人間が一人ひとり個性ある違った存在であって、考え方や感じ方が違うからです。
そして愛されていると感じる感じ方が、私たちの日々の生活時間の流れの中で変化していくからです。
今日の朝ご飯は、納豆とみそ汁と漬け物がいいと思ったら、その後毎日そう思っているかというと、2日後にはトーストと目玉焼きが食べたいと思うようになる。
同じように、今日は無条件ですべてを受け入れてくれることに愛を感じたけれど、次の日には理論的にきちんと説明を受けることに愛を感じたりします。
愛も食の好みのように変化していくのです。
だから、難しいのです。
愛は日々努力し、練習を重ねて、数多くの引き出しを持つ必要があります。
それによって愛ある人に成長できるのです。
人は皆、愛されたいと思っています。
だから“愛したい”と思える必要があります。
うまくいかなくても、上手じゃなくても、常に“愛したい”という思いを持ち続けましょう。
それが、イエス様を信じて生まれ変わった神の家族の姿です。
愛する人は、心安らかに過ごすことができ、神の家族であることに喜びを感じることができるのです。
〜【愛は恐れない】 ヨハネの手紙第一 3章9ー19節 〜