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【ヨハネによる福音書 6章48-59節】
ー主の身体ー
今日は母の日です。
キリスト教のお祭りではありませんが、キリスト教会から始まった行事です。
常日頃のお母さんたちの働きや思い出の中に生きる母親たちに感謝を捧げたいと思います。
さてイエス様はご自分を「いのちのパンである」とおっしゃいました。
パン、すなわち食糧は人間にとって生きるための糧です。
しかしこの聖書箇所で展開される概念は何か奇妙に感じられます。
イエスキリストの身体を食べる…何というか人肉を喰らう異様な光景を思い浮かべる人もいるかもしれません。
しかしながら古代のユダヤ社会においては決して変わった概念ではありませんでした。
古代ユダヤ社会ではいけにえは丸焼きにされるわけではなく、肉を切り分けられて「なだめの煙」とされました。
焼かれた肉は祭司たちの食卓にのぼり、時にはいけにえを捧げた者たちにも与えられました。
彼らは神殿の境内において祝宴を催しました。
その宴には神もおいでになって肉に宿ると考えられ、それを食べることで神が体内に入られて神の命と力によって肉を食べた者たちを守ってくださる、と信じられていました。
そこでイエス様は人々にわかりやすく、神としての自分の役割と力を語ったのです。
イエス様は私たちの罪の赦しのいけにえとして十字架にかかってくださいました。
いけにえと言ってもイエス様の体を食べるわけではありません。
その教えを私たちの心の内に受け入れるのです。
心にイエス様そのものを迎え入れる人は、永遠の命をいただいて生きることができるということです。
聖餐式のパンとぶどう液にはそういう意味があるのです。
パンとぶどう液に象徴されるイエス様の身体と血。
それが私たちの魂の力となり、いのちとなるのです。