エゼキエル書6章1−7節
1) 次のような主のことばが私にあった。2)「人の子よ。あなたの顔をイスラエルの山々に向け、それらに向かって預言して、 3) 言え。イスラエルの山々よ。神である主のことばを聞け。神である主は、山や丘、谷川や谷に向かってこう仰られる。見よ。私は剣をあなたがたにもたらし、あなたがたの高き所を打ちこわす。4) あなたがたの祭壇は荒らされ、あなたがたの香の台は砕かれる。わたしはあなたがたのうちの刺し殺された者どもを、あなたがたの偶像の前に投げ倒す。5)わたしは、イスラエルの民の死体を彼らの偶像の前に置き、あなたがたの祭壇の回りにまき散らす。 6) あなたがたがどこに住もうとも、町々は廃墟となり、罪に定められる。あなたがたの偶像が砕きに砕かれ、あなたがたの香の台は切り倒され、あなたがたのしたわざは消し去られ、 7) 刺し殺された者が、あなたがたのうちに横たわるとき、あなたがたは、私が主であることを知ろう。
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エゼキエルは紀元前597年ごろから550年ごろまでを生きたイスラエルの預言者です。
初めはエルサレム神殿に使える神殿祭祀でしたが、バビロニアの侵略でエルサレムは陥落し、エゼキエルも捕囚にとられてバビロンへと連行されます。
捕囚の地バビロンで預言者として召され、イスラエルの人々に神の言葉を取り次ぎました。
今日の聖書の言葉では「補修はイスラエルの人々の唯一まことの神への背信の結果であり、その罪を神が裁き断罪されて、イスラエルの人々は亡国の憂き目を見ることになった」「何の理由もなくイスラエルの民に災いをもたらしたのではない」と告げられています。
神は私たちに恵みと祝福を与えてくださいますが、同時に悲劇的な大惨事も与えられます。
そして大惨事だからこそ、そこには大切なみこころが働いていることを忘れてはなりません。
7節は「…あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」と結ばれています。実はこの言葉はエゼキエル書の6−7章で繰り返し言われています。
第二次世界大戦末期、東京大空襲で何もなくなってしまった東京の情景を見、呆然として夢も希望も失った人々がたくさんいたでしょう。
でもそれも神のみこころ。
日本人にゼロからのスタートをさせたのです。
バビロン捕囚時のイスラエルの人々も神殿を破壊され、荒れ果てたエルサレムの町並みを見て、夢も希望も失ったでしょう。
でも神は、大惨事を通して〝主とは誰か〟を知るようにとそれを示してくださるのです。
一切の望みを断たれ、どこへも逃れられないそんな時でも、ただ一つ道は残されます。
キリストにたどり着く道です。
大惨事、絶望は主へ近づく道なのです。
〜ただ一つの道【エゼキエル書 6章1ー7節 】〜