25) さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。26) 見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。27) しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」28) イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなた方は知りません。29) わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」30) そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。31) 群衆のうちにはイエスを信じる人が多くいて、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言い合った。32) パリサイ人たちは、群衆がイエスについて、このようなことを小声で話しているのを耳にした。そこで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。
(聖書 新改訳2017/©︎2017 新日本聖書刊行会)
エルサレムの宮殿で語るイエス様の言葉は、すべて的を得ていて合理性がありました。
そのためイエス様の前では、ユダヤ人たちが長く保持してきた価値観や常識は無力化してしまいました。
人間は自分の価値観や信念に基づいてものごとを判断するものです。
彼らは自分たちの信念や価値観を否定するイエス様を受け入れることはできず、放置できませんでした。
でもこれはイエス様を十字架にかけたユダヤ人だけの問題ではありません。
現代のわたしたちにもあてはまることです。
自分の価値観を人に押しつけていないでしょうか?
自分と異なる考えを持つ人を否定したり、対立したりしていないでしょうか?
ヨハネの福音書11章に、イエス様と、イエス様を慕う姉妹マルタとマリヤのやりとりが記されています。
弟ラザロが亡くなった時、マルタとマリヤが「主よもしここにいてくださいましたなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と愚痴をこぼします。
この時のマルタとマリヤの姿は人間の限界を表しています。
自分の理性でしかものごとを判断できないのです。
神は死んだ人を生き返らせる能力をも有しているのです。
自分の価値観や信念に執着する人は神に近づくことができません。
救いを逸することになります。
また自分と異なる価値観や信念を持つ人々への憎悪という罪深い感情を抱くことにもなるでしょう。
喜びをもって、異なる考えや価値観を理解し、受け入れられる人になりましょう。
*人名・地名等の表記は最新版の新改訳聖書2017にできる限り則っています