ー言わなくても分かってるー
マルタとマリヤの家があるベタニヤにやってきて村外れに留まっていたイエス様は、出迎えに来たマルタにマリヤを呼んで来るように言います。
家へ戻ったマルタは静かに、マリヤにだけ「イエス様が呼んでおられます」と告げます。
マルタとマリヤ姉妹の信仰のあり方はよく比較されます。
伝統的な教会では、いつも忙しく来客をもてなすマルタよりも、イエス様の近くに座り話に聞き入るマリヤの信仰態度の方が立派だと解釈されるケースが多いのですが、信仰の態度に立派もなにもなく、人それぞれであると言えます。
マザーテレサやマーティン・ルーサー・キング牧師ならいざ知らず、私たち凡人の信仰は大差変わりはありません。
「主よ、もしここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)。
姉マルタも21節でまったく同じことを言っています。
イエス様は神の御子です。
マルタやマリヤの救い主です。
理解度がどの程度なのかもすべてご存知でした。
イエス様はラザロの死を通して、マルタとマリヤをはじめラザロの葬儀に集まる大勢の人々に、ご自分が救い主としてどんな力をお持ちになっているか、神の力とはどのようなものかを示すために、重病の知らせを受け取っても慌てることなく2日待ってからベタニヤまで来たのです。
神には不可能を可能にする力があります。
死から生へと移し替える力もあります。
私たち一人一人のすべてをご存知です。
私たちは時々人の名前や時系列や他人の望みを間違えて解釈して祈り求めてしまうことがあります。
信仰歴の長い人に「とんでもないことをした」ように咎められた経験のある人もいるかもしれません。
そんなことを気にする必要はありません。
人間は間違えます。
でも神様はすべてをご存知。
間違えて祈った人が本当はどう祈りたかったのかも知っています。
神様にいちいちくどくど説明する必要はありません。
「間違えている」ことまで理解しておられる神様に、安心して願い求めましょう。
間違いを決して責めることのない神様に、感謝しましょう。