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《ヨハネの福音書 3章10-18節》
【十字架にかかって良かった】
イエス様はニコデモ個人と話をしているのに、ニコデモを「あなたがた」と複数で呼んでいます(11節)。
これは、ニコデモがパリサイ派に属する指導者の一人でもあるので,パリサイ派の考え方全般に対する批判を伝える意味で複数形を使っているのです。
またイエス様は自分のことをしばしば「人の子」と表現しています。
イエス様は神の子であるのに不思議な感じがしますが、これは「神が人として生きる」という神の計画を、上から目線でなくへりくだって述べていると言えます。
ニコデモはじめパリサイ人はイエス様の教えを理解しようとしないし、イエス様の癒しのみわざなど奇蹟を目の当たりにしていながらそれを認めようとしませんでした。
そんな人間に「神がへりくだる」という意味も理解できないだろうし、神の国や天の御国について説明しても理解しようとしないでしょう。
だからこの世界で救われるための悔い改めや、神が与えてくださる聖霊について語っているのだということが、今日の聖書のことばには記されているのです。
ニコデモはイエス様を「教師」「先生」と呼びますが、イエス様がどの様なお方かをまだ彼は理解していません。
それを14-15節でわかりやすく説明しています。
イスラエルの民が荒野で食物と水がなく苦しんでいた時、人々は神様とモーセに文句を言いました。
すると神が毒蛇を送り、イスラエルの多くの人々が噛まれて死にました。
モーセが神に祈り毒蛇を取り除いてほしいと願うと、神は蛇の像を造り竿の先に掲げるよう命じます。
そして人々が竿の先の蛇を見上げるとき、人々のいのちは守られました。
イエス様も同様に、十字架にかかり、人々から見上げられることで人々を救う救い主となるのだ、と15節にあります。
イエス様が十字架にかかってくださるのは、神様が人間を愛し、人間に生きながらえてほしいと思っていらっしゃるからです。
イエス様は苦しく辛い思いをなさいますが、私たちはそれを悲しむ必要はありません。
十字架が私たちに幸福を、神の恵みをもたらしてくれるからです。