ー中途半端と言われても 心は熱くー
ユダヤ人社会は、民衆の間でイエス様を巡って世論が二分されていました。
イエス様は救い主であると主張する人々と、そんなことがあるはずはないと相手にしない人々です。
イエス様を救い主と認めない人々は、パリサイ人と彼らを支持する富裕層が中心でした。
そもそも知識至上集団でしたから、一般市民の言うことには耳を貸さず、知識層でなんでも知っている自分たちの意見こそが正しいと思っていました。
そのため学歴もなく家柄も大工の家の子であるイエス様を救い主であると認めることはできませんでした。
聖書には「救い主はダビデの血筋で、ベツレヘム生まれである」とありますから、ガリラヤ出身のイエス様が救い主であるはずがないと決めつけていたわけです。
知識層を自負しながら調べもせずに、自分たちの主張だけで物事を判断していた彼らでしたが、そんな人たちの中にも心正しい人はいました。
ニコデモというパリサイ人は「律法に基づいてその人から直接聞いて、その人が何をしているかを知った上で判決を下すべきである。最初から有罪ありきではいけない」と主張します。
しかし多くの富裕層は「律法を知らない群集は呪われている」とまで言い切りました。
自分の都合や人を外見だけで判断してはなりません。
またその人の本質を知るべきです。
多数派の意見に左右されず、公正に分析をして正しい判断をし、自分の意見を述べられる人になりましょう。
知っていると言いつつ調べることもしていないと、恥をかくだけでなく大きな過ちにもつながります。