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【ヨハネの福音書 6章1-9節/あきらめない。常にチャレンジ】
今日の箇所は、5千人の人々と大麦パン5つで満腹にさせたイエス様の奇跡の業が行われる直前のことです。
ピリポとイエス様の会話の場面ですが、神と人間という対比で見るとその違いがよくわかると思います。
エルサレムからガリラヤへ戻られたイエス様一行は、ナザレやカナ辺りで神の国について伝え、テベリヤ湖(ガリラヤ湖)西中央部沿岸の町々マグダラから対岸(といっても北東の方向になりますが)へ渡ろうとしていたようです。
マグダラ近辺ではイエス様の行う癒しの業をひと目見ようと、噂を聞きつけた人々が集まり大変なことになっていました。
10節の記述で、5千人の人々が集まっていたとありますから、現代の感覚なら5万人くらい集まって密になっていたようです。
大勢の人々が押し掛ける様子を見て、イエス様はピリポに「どこからパンを買ってきてこの人々に食べさせようか」(5節)とたずねます。
ピリポは「めいめいが少しずつ取るにしても200デナリのパンでは足りません」(200デナリ=現在の100万円くらい)と答えます。
6節に「イエス様はピリポを試した」とあり、「ご自分では、しようとしていることを知っておられた」とあります。
イエス様は神としての立場から、「人間が求めているのならそれを与えよう、与えることができる」という発想ですが、
ピリポは人間としての目や理性で見て考え、「無理だ」という発想です。
さらに9節では少年が大麦パン5つと小さい魚2匹を持っていましたが5千人もの人々に食事として与えるには足りない、とあきらめています。
ここが、神と人間の違いです。
人間は理性を超えるとあきらめてしまいます。
しかし神はあきらめません。
神には「不可能」の文字がないからです。
不可能のない神を信じる私たちは、何ごともあきらめる必要がないのです。