ーすべてを赦す 大きな愛ー
カトリック教会の礼拝堂には通称、懺悔の部屋と呼ばれる告解の部屋があります。
カトリック教会では一般信徒は自分の罪を直接神に祈って赦しを乞うことはできないので、この部屋に入り司祭に告白して、司祭から神に祈ってもらい赦しを頂きます。
カトリック教会の司祭によると、信徒の罪の告白のほとんどが「ミサに出席しませんでした」「日々の祈りを怠りました」という、いわば形式的なものがほとんどだそうです。
告白しやすい罪だからなのかもしれませんが、これは全くもってその人の「根本的問題」と「罪の赦し」という神との関係における重大なものが置き去りにされてしまっています。
今日の聖書の箇所は、パリサイ人たちが姦淫の場で捕らえた女をイエス様の前に連れ出し、「この女をどうしますか?」と迫る場面が記されています。
現代ならワイドショーでたびたび取り上げられる芸能人の不祥事や「ミサに出席できませんでした」という程度のものかもしれません。
パリサイ人たちの主張にはおかしな点がたくさんあります。
姦淫の場を捕らえたのであれば相手の男はどうしたのか?
また姦淫の罪はイエス様に聞くまでもなく石打ちの刑と定められていましたから刑を執行すればいいだけのことなのに、イエス様がどうするかを尋ねています。
イエス様が「赦してやりなさい」と言えば「モーセの教えに従っていない」と告発し、「石打ちにしなさい」と言えば「愛がない」と断じようとしていたのです。
これはあきらかに仕組まれた姦淫の罪でした。
実際の罪も、パリサイ人たちによるイエス様を陥れようとする罪も、どんな罪であれイエス様には赦す権限があります。
「罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい」イエス様はおっしゃいました。
罪のない人間などいないのです。
その罪を恥ずかしがらず、素直に神に告白しましょう。
格好をつける必要はありません。
私たちはみな罪深い者ですから。
でも、イエス様はその罪を赦し、私たちを聖い者に変えて下さいます。