ー神様の目線、私の目線ー
イエス様は、神の国の福音宣教の働きを始めると〝帰るべき家〟を持ちませんでした。
現代にも帰る家のない人たちがたくさんいます。
ホームレス、ネット難民…
帰る場所がない、それは心安らぐ、心温まる場所がないということです。
私たちには、家…心休まる場所が必要です。
励まし合える仲間や家族が必要です。
イエス様はハードウェアとしての家はありませんでしたが、家族と呼ぶ多くの仲間たちがいました。
そして家庭の必要性を知っていたイエス様はことあるごとにマリヤとマルタ姉妹の家を訪ねました。
イエス様は家で家庭の愛を体験していました。
家・家庭・家族は、私たちに必要なのです。
ある時、イエス様の家庭とも言えるマルタとマリヤの家で、彼女たちの兄弟であるラザロが重い病気にかかっているという知らせが入ります。
しかしイエス様はラザロのところへ向かおうとはしませんでした。
人は家族が危篤と聞けば急ぎ駆けつけると思いますが、イエス様は平然としていました。
イエス様は神の御子ですから私たちの身の回りで起こるすべてのことを細かく、よくご存知なのです。
ラザロの重病とその結果のすべてを知っておられたため慌てる必要はありませんでした。
イエス様はラザロにまつわる真理を人々に明らかにするため、知らせが届いて2日経ってからエルサレムに向かおうとされました。
しかし前回エルサレムにいた時パリサイ人たちから殺されそうになったことがあったので弟子たちは「あんなところへまたいくのですか?!」と心配します。
苦難があることを承知で使命を果たさなくてはならないこともあるのです。
9−10節はイエス様の地上での働きを意味しています。
〝昼間〟とはイエス様に与えられた十字架のみわざの働きで、神の御心であり必ず成就するという意味です。
11節以降はこれからラザロのところへ行き起こる出来事について語られています。
〝眠り〟には二つの意味があります。文字通り眠っているという意味ともう一つは亡くなったという意味です。
イエス様はラザロが〝死んでいる〟という意味で使いましたが弟子たちは〝眠っている〟と解釈しました。
神様と私たちの間には時に噛み合わない、ボタンのかけ違いのようなことが起こります。
トマスも「私たちも行って主とともに死のうではないか」(16節)ととんちんかんなことを言っています。
でもやがてすべての弟子たちがイエス様のラザロに行うとんでもない奇跡を目にすることになります。
そもそも神と人間は全然違うのです。
噛み合わなくてもいい。
しかし従える人になりましょう。