ー問題の解決はイエス様が知っているー
パレスチナでは、人が亡くなるとできるだけ早く埋葬する習慣がありました。
高温多湿の気候のため遺体の腐敗を避ける必要があったからです。
また葬儀はできるだけ多くの弔問客を招くことが、死者を出した家の品格を保つと考えられていました。
弔問客をもてなして葬儀は1週間に及ぶこともありました。
マルタ・マリヤ・ラザロの家は裕福で、多くの弔問客が訪れ、イエス様が到着した時は遺体は埋葬されて4日も経っていました。
イエス様の到着を知らされると、マルタはうやうやしくイエス様を迎えましたが、挨拶も早々にイエス様に愚痴をこぼします(21節)。
「主よもしここにいて下さったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」
マルタはイエス様を神の子救い主と信じていましたが、神の力がどういうものかはっきりとは理解していませんでした。
イエス様が病を癒すことができるのはわかっていましたが、死んだ者を生き返らせる力があるとは考えられなかったのでしょう。
イエス様を信じていれば、死んでも終わりの日には皆よみがえるということは分かっていても、死んだ者が今すぐ生き返るとは思ってもみなかったのです。
イエス様は25−26節でマルタにこう語りかけます。
「私はよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また生きていてわたしを信じる者は決して死ぬことがありません。このことを信じますか?」
これに対してマルタは「…信じております。」(27節)と答えます。
しかし彼女は、信じてはいましたが、分かっていませんでした。
一方妹のマリヤはイエス様が到着しても自分から迎えには出ず、イエス様に呼ばれて初めてイエス様のもとへ行きます。
2人はよく比較されます。
こまめに動いてかいがいしく接待を努めるマルタと、気は利かないけれどいつもイエス様の近くに座って話に聞き入るマリヤ。
どちらがいい、ということではありません。
いろいろな人がいるということ、そしてどういう形であれ、大切なのはイエス様が私たちの直面する問題の解決主であると確信することです。
私たちの悩み苦しみ、悲しみ、すべての問題の解決は、イエス様が握っておられるのです。