11章
55) さて、ユダヤ人の過越(すぎこし)の祭りが近づいた。多くの人々が、身を清めるため、過越の祭りの前に地方からエルサレムに上(のぼ)って来た。
56) 彼らはイエスを捜し、宮の中に立って互いに話していた。「どう思うか。あの方は祭りに来られないのだろうか。」
57) 祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた。
12章
1) さて、イエスは過越の祭りの6日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
2) 人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。
3) 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
4) 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。
5) 「どうして、この香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6) 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人(ぬすびと)で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。
7) イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリアは、わたしの葬(ほうむ)りの日のために、それを取っておいたのです。
8) 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、私はいつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。」
(聖書 新改訳2017/©︎2017 新日本聖書刊行会)
今日の聖書の言葉は、過越の祭りが間近であったということから始まっています。
ユダヤ人にとってこの祭りは大変意義があります。
それはユダヤ人の歴史的一大事業であったエジプト脱出を記念するものだからです。
だいたい春の3月から4月にかけて行われ、多くの人々がエルサレムに上り、神殿に詣でて身を清めます。
この時の人々の話題は「あの方」つまりイエス様が来るに違いない、見てみたい、会ってあの方のなさる奇跡の力を体験してみたい、ということで、だれもかれもがそう思っていました。
一方祭司長やパリサイ人といった指導者階級は、この機会にイエス様を捕らえようと考えました。
それで「イエスがどこにいるか知る者は届けなければならない」という命令を出していました。
対象となる方は同じですが、一方では素晴らしいお方、でももう一方では極悪犯罪者のように扱うという、まったく真逆な捉え方です。
実は私たちも同じです。
Aという人物が、ある人にとっては善い人でも、ある人々にとっては人を騙す悪人、というようなことはあると思います。
同じ人でも、見る人にとって違う人になってしまうことはあるのです。
そんな中、イエス様は「祭りの6日前にベタニヤに来られた」とあります。
そこには少し前にイエス様によって生き返ったラザロがいました。
人々は、死人だったはずのラザロが生きていることに好奇の目を向けていたと思います。
奇跡をおこなったイエス様よりも、死んだはずの男が生きて動いていることに興味をそそられたのでしょう。
そこへマルタの妹マリヤがやって来てイエス様の足に香油を塗りました。
「ナルドの香油300グラム」とあります。
イスカリオテのユダが「300デナリで売れたのに!」と言っていますが、現代の価値にしておよそ300万円です。
300万円もの香油を持っていたマリヤにびっくりですが、彼女の家はイエス様をサポートする大金持ちであったことがわかります。
人々の中には、イエス様をイリュージョンをおこなうマジシャンのように見る人や、愛と尊敬の対象として向き合うマリヤのような人もいました。
イエス様を見る目にも、いろいろな目があったのです。
さらに、ただ金銭的な価値でしかものごとを見ないイスカリオテのユダのような人間もいました。
そしてイエス様ご自身も、間もなく十字架にかからねばならないことを思い、マリヤのおこないを自分自身の葬りのためのおこないだと言っています。
同じ場面を見ても、人によって、感じ方や捉え方は違います。
いちいちそれを取り上げて意見する必要はありません。
そのままにしておきましょう。
大金を湯水のように使ってはもったいない、と思います。
でもそれは持っている人の勝手です。
貧しい人々がいなくなることはありません。
その人々のために、自分のできることをしましょう。
自分が役に立てることで、仕えましょう。
*人名・地名等の表記は最新版の新改訳聖書2017にできる限り則っています
〜【いろんな人がいる】 ヨハネの福音書 11章55-12章8節 〜