ー一粒の麦って?ー
今朝の聖書の言葉は、「ギリシャ人が祭りの礼拝のため上って来ていた」というところから始まっています。
この祭りは12章1節にあるとおり過越の祭りです。
何気ない書き出しですが、実は大きな意味があります。
それはイエス様がユダヤ各地で宣べ伝えていた神の国の福音がもうすでに異邦人にも伝わっていたということです。
マタイの福音書28章19−20節にあるように「…あなたがたは行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい。そして父・子・聖霊の御名によってバプテスマを授け、私があなたがたに命じておいたすべてのことを守るように彼らを教えなさい」というイエス様の教えが実行に移されていたのです。
それは同時に〝イエス様の時〟すなわち十字架の御技の時が近づいたことを教えてくれています。
「一粒の麦がもし地上に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかしもし死ねば豊かな実を結びます」(24節)。
麦の実は、それを集めて粉に挽きパンを作れば人々の腹を満たすことができますが、それは食べる人の腹を満たすだけです。
しかし種として地に蒔けばさらに多くの実を結び、多くの人々の腹を満たすことができます。
その上また種を蒔くことを繰り返せば、未来永劫、何千何万という人々の腹を満たすことができるでしょう。
イエス様がそうであったように、私たちも人々のために犠牲を払い、たとえ今でなくても未来の誰かの役に立つように行動するべきです。
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛するべきです」(1ヨハネ4:20−21)。
私たちも一粒の麦になって、誰か他の人のために役立つことのできる人となりましょう。