ー愛ある人は仕える人ー
私たちは、神のお姿を見ることはできません。
そのため神はどんなお方かと、その姿かたちを想像したり、想像した姿から神のご性質を推し測ろうとしたりします。
たとえば、神は畏れ多いお方、裁きと罰を与える恐い厳しいお方、諭し、慰めを与える憐れみ深い方…など、人によって神がどのようなお方か捉え方が異なります。
今日の聖書の言葉は、そのようなさまざまな神様観の中で、これこそが神の姿だ、というべき神様のご性質と姿が描かれています。
イエス様はもちろんご自分が神そのものであり、人類の救い主として地上においでになったことを認識していました。
神の国の福音宣教の働きを終え、いよいよ人類の救いのために十字架にかかり苦しみを受け、恥辱を受けて死ななければならないこともわかっていました。
神でありながら、そしてこの世の王にも勝る存在でありながら、すべての誇りを投げ打ち喜んで恥辱を受けるとはどういうことか。
その姿を弟子たちに示すため、イエス様は弟子たち一人一人の足を洗ってやるという行動に出ました。
まだ道が舗装されていな時代です。外を歩けば土埃が舞って足は埃だらけになりました。
家に帰るとまず奴隷が桶に水を汲んでその汚れを落としてくれました。
イエス様は神でありながら奴隷、すなわち仕える者になったのです。
愛とは仕えること。
徹底的に仕えることです。
私たちが神を愛し、神に仕えるとき、神も私たちを愛して、私たちに仕えてくださいます。
その「神のご奉仕」を、謙虚に、と考えて辞退してはなりません。
それは神の恵みを拒絶することになります。
いっぱい神に仕えていただき、神の愛をいただきましょう。
そして私たちも仕えることのできる愛の人になりましょう。