〜すべてが関わり合っている〜
ヨハネの福音書 19章 18−24節18) 彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真ん中にしてであった。19)ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。20) それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都(みやこ)に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書いてあった。21) そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。22)ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」 23) さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつ 当たるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫目なしのものであった。24) そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、誰の物になるか、くじを引こう。」それは「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。
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イエス様の処刑は「ゴルゴタの丘」と呼ばれる地で行われることになりました。
日本語で「どくろの地」、ラテン語で「カルバリア」、英語だと「カルヴァリー」と訳されます。
おそらく罪人の処刑が行われる場所なのでこの名で呼ばれるようになったと思われます。
イエス様は自分がはりつけにされる十字架を、自身で担がされて刑場へ向かいました。
人一人をはりつけにする十字架なので、重みに耐えられる太くて丈夫な木材で相当な重さがあり、引きずるようにして運んだと思われます。
イエス様の処刑は、ほか2人の犯罪者も同様にして十字架にかけられました。
ピラトも罪を認めないと言ったのに、犯罪者として本物の犯罪者とともに、まるで一番重い罪で裁かれるがごとく、真ん中の十字架にかけられました。
背中には鞭打たれた傷があり、十字架を担がされた疲労感といばらの冠を被らされ頭にも傷がついて苦痛を感じておられたと思います。
この時の十字架上で苦しみを表すイエス様の言葉をヨハネは伝えていませんが、イエス様の十字架につけられた罪状について詳しく説明しています。
これはユダヤ指導者たちへのピラトの皮肉をこめた抵抗であり、嫌がらせの行動でした。
ピラトがあれほど「イエスは無罪である」と言ったのに、半ば脅迫するかのように有罪とさせたユダヤ指導者たち。
その罪状を「ユダヤ人の王」と書くことで、「自分はローマの法律にそって裁こうとしているのに、ユダヤ指導者が自分たちの身勝手でイエスを処刑した」とでも主張したかったのでしょう。
主が十字架にかけられる時、ローマ兵は呑気に主の服を下着まで取り合っていました。
主の十字架など自分たちには関係ないと思ったのでしょう。
現代の私たちも世の中で起こる様々なことに、自分は関係ないと考えてまったく別のことをやっていたりします。
しかし、今起こっているすべてのことが、私たち一人ひとりすべての人に関わっています。
イエス様の十字架ももちろんすべての人類に関係することです。
その意味に目を向けて、自分のこととして受け止めましょう。
〜イエスさまに焦点を当てろ【ヨハネの福音書 19章18ー24節 】〜