20) さて、祭りで礼拝のために上(のぼ)って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。
21) この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。22) ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。23) すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
24) まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。25) 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠の命に至ります。26) わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」27) 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。28) 父よ。御名の栄光を現してください。」すると天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。29) そばに立っていてそれを聞いた群衆は、「雷が鳴ったのだ」と言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話しかけたのだ」と言った。
(聖書 新改訳2017/©︎2017 新日本聖書刊行会)
今朝の聖書の言葉は、
「祭りで礼拝のために上(のぼ)って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた」
というところから始まっています。
この祭りは12章1節にあるとおり過越(すぎこし)の祭りです。
何気ない書き出しですが、実は大きな意味があります。
それはイエス様がユダヤ各地で宣べ伝えていた神の国の福音が、もうすでに異邦人にも伝わっていたということです。
マタイの福音書28章19−20節にあるように
「…あなたがたは行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」
というイエス様の教えが実行に移されていたのです。
それは同時に〝イエス様の時〟すなわち十字架のみわざの時が近づいたことを教えてくれています。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」(24節)
麦の実は、それを集めて粉に挽いてパンを作れば、人々の腹を満たすことができます。
でもそれは食べる人の腹を満たすだけです。
しかし種として地に蒔けば、さらに多くの実を結び、多くの人々の腹を満たすことができるのです。
そのうえまた種を蒔くことを繰り返せば、未来永劫、何千何万という人々の腹を満たすことができるでしょう。
イエス様がそうであったように、私たちは多くの人々のために犠牲を払い、たとえ今でなくても、未来の誰かの役に立つように行動するべきです。
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです」(第一ヨハネ4:20−21)。
私たちも一粒の麦になって、誰か他の人のために役立つことのできる人となりましょう。
*人名・地名等の表記は最新版の新改訳聖書2017にできる限り則っています
〜【一粒の麦って?】 ヨハネの福音書 12章20-29節 〜