レビ記 19章1-10節
1) 主はモーセにこう告げられた。
2) 「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。3) それぞれ、自分の父と母を恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。4) あなたがたは偶像の神々に心を移してはならない。また、自分たちのために鋳物(いもの)の神々を造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である。5) あなたがたが交(まじ)わりのいけにえを主に献げるときは、自分が受け入れられるように献げなければならない。6) それを献げた日と、その翌日に、それを食べなければならない。三日目まで残ったものは火で焼かなければならない。7) もしも、三日目にそれを食べるようなことがあれば、それは不浄なものとなり、受け入れられない。8) それを食べる者は咎(とが)を負う。主の聖なるものを冒したからである。その人は自分の民から断ち切られる。9) あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落穂を拾い集めてはならない。
10) また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
(聖書 新改訳2017/©︎2017 新日本聖書刊行会)
レビ記は、神の定めた規則が記された書です。
規則ですから、なにかがんじがらめに縛られた窮屈な書のように思うかもしれません。
しかし実はすべて、人間が穏やかに安心して幸せに暮らせるように定められたものでした。
神の愛と優しさにあふれたものである、といえます。
神様はすべての人間を一人ひとり平等に愛してくださっています。
しかしだからといって、すべての人間が平等に物質的に恵まれた生活をしているわけではありません。
たくさん保有している人もいれば、財産と呼べるものがまったくない人もいます。
これは、どうすることもできない人間社会の宿命です。
でも神様は、すべての人が飢えることなく平和で過ごせるようにと願い、律法を定めました。
イエス様は弱い者、貧しい者たちと共に歩みました。
神様は弱者に目を向けてくださるお方です。
教会はこの神の精神を汲み、弱者と共に生きる社会を形成しようとしてきました。
譲る
思いやる
もてなす
労わる
古代から人間が求める優しさです。
優しさを分かち合うことで、私たち人間社会は潤うことができるのです。
厳しさや辛く苦しい戒めよりも、心和む優しさを身につけましょう。
19章1-10節は10回以上「してはいけない」「しなければならない」と行動を束縛する言葉が並び立てられています。
でも9節を見てください。
これはミレーの落穂拾いの題材となった聖句です。
なぜ、収穫のとき落穂を拾ってはいけないのか?
「もったいない」と思いますね。
実はこれは、土地を持たず、また働くことのできない人々への、すなわち弱者への優しさです。
あわれみです。
すべては、私たちのために、幸せのために、「してはならない」のです。
神様のあわれみと優しさに倣う人になりましょう。
〜【優しい人】 レビ記 19章1-10節 〜