イザヤ書 50章5-11節
5) 神である主は私の耳を開いてくださった。私は逆らわず、うしろに退きもせず、
6) 打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱(ぶじょく)されても、唾(つば)をかけられても、
顔を隠さなかった。
7) しかし、神である主は私を助けてくださる。それゆえ、私は侮辱されることがない。
それゆえ、私は顔を火打石(ひうちいし)のようにして、自分が恥を見ないことを知っている。
8) 私を義とする方が近くにいてくださる。だれが私と争うのか。さあ、ともに立とう。
だれが私を裁く者となるのか。私のところに出てくるがよい。
9) 見よ。神である主が私を助けてくださる。だれが私を不義に定めるのか。
見よ。彼らはみな衣のように古び、シミが彼らを食い尽くす。
10) あなたがたのうちで主を恐れ、主のしもべの声に聞き従うのはだれか。
闇の中を歩くのに光を持たない人は、主の御名に信頼し、自分の神に拠(よ)り頼め。
11) 見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火の明かりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くが良い。このことは、わたしの手によってあなたがたに起こり、
あなたがたは苦悶(くもん)の場所で伏し倒れる。
(聖書 新改訳2017/©︎2017 新日本聖書刊行会)
預言者イザヤは
「主のしもべが異邦人の光となる。神の民を捕囚と彼らの罪から救い出す。」
と人々に告げ知らせました(42章)。
つまり、主の言葉に従い、神を崇めて生きるその姿に倣(なら)って歩む者が、救われて幸いな人生を歩む、という意味です。
今日の箇所50章5節には「神である主は私の耳を開かれた」とあります。
「目が開かれる」という表現はしばしば使うと思います。
あるいは「目から鱗が落ちる」などは「はっとして気づく」「ものごとを悟る」という意味で使います。
でも「耳が開かれる」とはなかなか言いませんね。
これは「目が開かれる」と同じ意味で用いられています。
「目が開かれる」というのが、自分自身の主体性によって〝気づく〟という意味あいなのに対して、「耳が開かれる」というのは自分ではなく神が〝気づかせてくれた〟という、すなわち第三者の手によって働きかけられて悟る、という違いがあります。
そして6−7節で、何ごとが起こっても神の声に従い、すべてを神がなさるように任せると言っています。
そうすれば、どんな苦難に遭おうとも、神は神の声に聞き従う者を守ってくださる、と語られているのです。
もしも無実の罪を訴えられて法廷に出廷したら、不安にかられるでしょう。
でも神は真実を知っておられます。
神が私たちの無罪を主張してくださいますから、なにも心配する必要はない、ということです。
人生において、ある時はまったく明かりが見えず、長い暗闇を歩き続けなくてはならない辛い時期もあるかもしれません。
しかしそんな時でも神様は私たちの行く手に明かりを灯してくださいます。
そして必ず長いトンネルから抜け出すことができるように、導いてくださるとイザヤは語っているのです。
〜【出口は必ずある】 イザヤ署 50章5-11節 〜