1) さて、過越(すぎこし)の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。2) 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。3) イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。4) イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5) それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。6) こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」7) イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今はわからなくても、後でわかるようになります。」8) ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」9) シモンペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」10) イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」11) イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
(聖書 新改訳2017/©︎2017 新日本聖書刊行会)
私たちは、神のお姿を見ることはできません。
そのため、神はどんなお方かと、その姿かたちを想像したり、想像した姿から神のご性質を推し測ろうとしたりします。
たとえば、『畏れ多いお方」「裁きと罰を与える恐い厳しいお方」また「諭(さと)し、慰めを与えてくださる憐れみ深い方」などなど…。
神がどのようなお方なのか、人によってとらえかたが異なります。
今日の聖書の言葉は、そのようなさまざまな神様観の中で、これこそが神の姿だ、というべき神様のご性質と姿が描かれています。
イエス様はもちろん、ご自分が神そのものであり、人類の救い主として地上においでになったことを認識していました。
神の国の福音宣教の働きを終え、いよいよ人類の救いのために十字架にかかり、苦しみと恥辱を受けて死ななければならないこともわかっていました。
神でありながら、そしてこの世の王にも勝る存在でありながら、すべての誇りを投げ打ち喜んで恥辱を受けるとはどういうことか。
その姿を弟子たちに示すため、イエス様は弟子たち一人一人の足を洗う、という行動に出たのです。
当時はまだ道が舗装されていない時代です。
外を歩けば土ぼこりが舞って、足はほこりだらけになりました。
家に帰ると、まず奴隷が桶に水を汲んでその汚れを落としてくれました。
イエス様は神でありながら、奴隷、すなわち仕える者になってくださったのです。
愛とは仕えること。
徹底的に仕えることです。
私たちが神を愛し、神に仕えるとき、神も私たちを愛して、私たちに仕えてくださいます。
その「神のご奉仕」を、謙虚に、と考えて辞退してはなりません。
それは神の恵みを拒絶することになります。
いっぱい神に仕えていただき、神の愛をいただきましょう。
そして私たちも、仕えることのできる、愛の人になりましょう。
〜【愛ある人は仕える人】 ヨハネの福音書 13章1-11節 〜