ヘブル人への手紙 7章27節、9章22−28節
7章」27) イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそにことを成し遂げられたからです。
9章」22) 律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。23) ですから、天にあるものの写しは、これらのものによってきよめられる必要がありますが、天上にある本体そのものは、それ以上にすぐれたいけにえによって、きよめられる必要があります。24) キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。25) それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。26) もし同じだとしたら、世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストは一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。27) そして人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、28) キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。
(聖書 新改訳2017/©︎2017 新日本聖書刊行会)
イースターを心からお祝いします。
キリスト教のもとになったユダヤ教では、罪の赦しのために動物をいけにえとして献げる習慣がありました。
律法にも定められており、罪の赦しのための動物のいけにえの血が必要で、祭壇で動物の血が注がれていました。
旧約聖書によると罪の赦しには動物の血以外にも必要とするものがありました。
それは
1あがないの小麦粉 2 あがないの香 3 聖めの灰を混ぜた水 4 聖めの火
5 あがないの宝石
など。
罪の赦しの儀式を神殿の祭司に願い、これら使用されるものの対価を支払わなければならなかったのです。
ですから貧しい人は罪の赦しをもらうことすらできませんでした。
しかしながら、すべての人が悔い改めれば赦されるのですから、赦しが必要です。
すべての人が平等に赦されるためにも、イエス様の死、尊い血が必要でした。
お金など出す必要はなく、しかも二度と動物の血を流す必要もない。
しかもイエス様自身、血を流すのは一度だけ。
動物のように、いけにえのために殺してしまって終わりでなく、死に打ち勝ち復活までしてくださいました。
それは罪赦された人々が、同様に死に打ち勝って、永遠に生き続けることの象徴だったのです。
人生には喜びや楽しみがあり、同時に辛く苦しいこともあります。
私たちはやがてこの地上の生の終わり、すなわち死を迎えます。
悲しいことです。
でも歴史上の偉人も、みな死を迎えました。
釈迦もマホメッドも死にました。
でもイエス様は死してなお、復活して生きています。
すべての宗教の中で、ただ一つ死に打ち勝つ道を開かれました。
悲しみ苦しみ悩みの多い人生も、イースターのお祝いを迎えることで喜びに変えられるのです。