マタイの福音書 6章1-13節
1)人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報(むく)いを受けられません。2) ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。3) あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。4) あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。5) また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。6) あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父があなたに報いてくださいます。7) また、祈るとき、異邦人のように、同じ言葉をただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。8) ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。9) ですから、あなたがたはこう祈りなさい。
『天にいます私たちの父よ。
御名(みな)が聖なるものとされますように。
御国(みくに)が来ますように。
みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧(かて)を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』
(聖書 新改訳2017/©︎2017 新日本聖書刊行会)
偽善者は、神を知り神を信じている者の中にいます。
神を知らない人間は善すら知りませんから、偽善…善を装うことはせず、ただ悪いことをするだけです。
偽善という言葉は、ギリシャ語でヒュポクリテースといいますが、「俳優」という意味も持っています。
「人に見てもらおうとする」「人前で行う」という共通点があるのだと思います。
本来、善とは神に対して行うものなのに、罪人である人間は目に見えない神ではなく、目に見える人間を気にしてしまうのです。
そうすると内容よりも形式に重点が置かれ、結果、偽善が生まれてくるわけです。
ともかく人間は人に見られたいし、人からの評価を得たいのです。
そのためスタンドプレーが生まれます。
スタンドプレーは、自分だけが目立ち、注目を得ますが、一方大切なものを失います。
スポーツであればチームの和を乱すことになるわけです。
野球で
、バントのサインが出ているのに強打するのは、チームとして結果を乱すことになり、悪くすれば敗北を招きます。
たまたま良い結果が出ても、チームメイトや首脳陣の信頼を失います。
私たちの行いは、すべて自分のためではなく、神様のために行うべきです。
時には犠牲を払う必要もあります。
なぜ人の目よりも神様の目を気にしなくてはならないのか?
それは人間が神様に喜んでいただくために生きているからです。
個人プレーでなくチームプレーに徹して、神様に喜ばれる生き方をしましょう。
*人名・地名等の表記は最新版の新改訳聖書2017にできる限り則っています
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