出エジプト記 33章5-14節
5) 主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時(ひととき)でも、あなたがたのただなかにあって上(のぼ)っていこうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」 6) それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。7) さて、モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れたところに張り、そして、これを会見の天幕と呼んでいた。誰でも主に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのを常としていた。8) モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。9) モーセがその天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。こうして主はモーセと語られた。10) 雲の柱が天幕の入り口に立つのを見ると、民はみな立ち上がって、それぞれ自分の天幕の入り口で伏し拝んだ。11) 主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。モーセが宿営に帰るとき、彼の従者(じゅうしゃ)であるヌンの子ヨシュアという若者が天幕から離れないでいた。12) さて、モーセは主に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣(つか)わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指しで選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。13) 今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民(くにたみ)があなたの民であることを心に留めてください。」
14) 主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」
(聖書 新改訳2017/©︎2017 新日本聖書刊行会)
フットプリントという有名な詩があります。
天に召されたある人が海岸に残されました。
砂浜についた並んで歩く二人分の足跡をみて「私の人生はいつもイエス様がともに歩んでくださった」と感謝するのですが、ある場所だけ足跡が一人分しかありません。
「そうだ、あれは私の人生で一番辛かったとき。
あのときはイエス様は私と一緒にいてくださらなかったのですね」とたずねます。
するとイエス様は「いや、あのとき私はあなたを背負って歩いていたんだよ」と答えました。
心動かされる詩です。
イエス様は私たちの人生がどんなときでも共にいてくださいます。
ときにはこの詩のように私たちを背負ってくださることもあります。
イスラエルの人々はエジプトの奴隷生活から解放され、モーセに率いられて荒野をさまよい歩きます。
彼らは自由を手に入れましたが、安住の地を手にするために多くの困難がありました。
辛いことや苦しいこと、試練のたびに人々は文句を言いつぶやきました。
時には「こんなことならエジプトにいたほうが良かった」とまで言い出す始末でした。
神様はこんなイスラエルの人々を「うなじのこわい民」と呼びます。
これは
「素直さに欠け、人の助言を聞けない頑固な人」
という意味です。
そもそもは自分たちが「エジプトにいたくない、助けてくれ」と言ったのです。
それなのに、やれ喉が渇いた、食べ物がない、定住地もない、こんな生活いやだ」と言いたい放題でした。
最初神様は「あなたたちの先頭に立って導く」とおっしゃいました。
しかし「もうあなたたちとは一緒に行かない」とおっしゃり、モーセに「先頭に立って行け」とおっしゃいます。
行き詰まったモーセは神様に「あなたは名指しで私を選ばれたのですから、責任を持って進むべき道を教えてください」と懇願します。
すると神様は「わかった。あなたと共に行き、あなたを休ませよう」と言ってくださったのです。
神様は、何があっても私たちと共にいてくださいます。
今年も神様に守られて過ごせたことを感謝しましょう。
そして、来る年も私たち一人一人と共に歩んでくださる神様に期待をし、新しい年を迎えましょう。
*人名・地名等の表記は最新版の新改訳聖書2017にできる限り則っています
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