マタイの福音書 15章1-9節
1) そのころ、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て言った。2) 「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません。」3) そこでイエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。4) 神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。 5) それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私から差し上げるはずのものは神へのささげ物になります、と言う人は、6) その物を持って父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。7) 偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて、見事に預言しています。
8) 『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
9) 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」
(聖書 新改訳2017/©︎2017 新日本聖書刊行会)
世の中には細かなことが気になる人がいます。
かくいう私も、TVアナウンサーのイントネーションや言い回しの間違いが気になって仕方ありません。
細かいことが気になる人は、ネガティブ思考の人が多いようです。
「もし失敗したらどうしよう!?」という発想から、さまざまなことが気になる人だと思います。
イエス様の時代、パリサイ人や律法学者は細かいことが気になったようです。
イエス様の噂を聞きつけた彼らが、イエス様のところへやって来て言いました。
「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません。」
彼らはもちろん、議会やパリサイ派の上層部からイエス様を陥れるために派遣されて来ていました。
にもかかわらずクレームを付けたのが、〝パンを食べる時に手を洗っていない〟という、まるでお母さんが子どもに言うような言葉でした。
お母さんが食前に子どもに〝手を洗いなさい〟と言うのは衛生面からですが、パリサイ人の主張は、伝統・・・昔からの言い伝えを守っていないから、ということだったのです。
もちろん、食事前は手を洗った方がいいでしょう。
しかしイエス様の説く神の教えに従って生きることからすれば、パンを食べる時に手を洗うか洗わないかはどうでもいいことです。
しかもそれは神の教えではなく、昔からの習慣に過ぎません。
イエス様は細かい習慣やら伝統を持ち出して、肝心かなめの神の教えをないがしろにするパリサイ人たちを糾弾しました。
人を愛する。
神を愛する。
その大切なことをなおざりにして、細かなどうでもいいことに固執し、捕われるのは、建設的・未来志向的ではありません。
神の言葉を、生きた価値あるものとするために、細かなことにとらわれず、大局を見極めて、未来志向的・建設的な歩みをしましょう。
神様もそれを望んでおられます。
〜【細かなことを気にせず 大局を見極める】 マタイの福音書 15章1ー9節 〜